昨日の記事で、辰吉丈一郎が敗れた試合の原因は何か?

それぞれの試合ごとに挙げていった。

今日は、1992年9月17日に行われたWBC世界バンタム級王座統一戦、王者・辰吉丈一郎vs暫定王者・ビクトル・ラバナレスの一戦について詳しくみていく。


1991年9月19日、辰吉はプロ8戦目にしてWBC世界バンタム級王座に輝いた。

プロデビューから8戦目での世界タイトル獲得は当時の国内最短記録である。


同年11月8日、辰吉の初防衛戦の日程が発表された。

初防衛戦は1992年2月6日、相手は(当時)WBC世界バンタム級3位・李勇勲、19戦全勝(10KO)、無敗の挑戦者だ。

辰吉は当時、強気な発言を続けていた。

「世界王者になったからといって弱い相手と試合をする気はない。無敗か全部KOで勝っているような相手と戦いたい」

ここから辰吉の力強い防衛ロードが始まっていくのだ。

最強の挑戦者、WBAとの王座統一戦、

辰吉こそがバンタム級における最高の存在であることを証明していくために。


しかし、ここで事態は急変する。

翌12月、辰吉は左目に異常を訴えたのだ。

診断結果は「網膜裂孔(もうまくれっこう)」。

初防衛戦は中止。

少なくとも1年間は試合を行えなくってしまった。


大阪帝拳の吉井会長(当時)は、こう語った。

「辰吉の王座返上は考えていない」

この発言には違和感がある。

・網膜裂孔になり目の手術が必要になったこと。
・それに伴い1年のブランクを要すること。

この段階ではまだ手術さえ終わっていないのだ。

まずは手術の経過を見てから復帰が可能か否かという判断を下すべきである。

仮に復帰ができるとしてもこういった状況を考えれば一旦タイトルは返上し、じっくりと王座返り咲きへの道を模索してもいいのではないか。


これを受けてWBCはバンタム級に「暫定王座」を置くことを発表。

当時のランキング1位・ビクトル・ラバナレス、2位・呉 張均、3位・李勇勲の3選手をトーナメント方式で対戦させ、暫定王者を決定することになった。

勝ち抜いたのはビクトル・ラバナレス。



当時の辰吉は、こういった形でブランクを作るということを経験したことがなかった。

プロの世界で未だ無敗。

修羅場をくぐったことがない。

「何とかなるだろう」

この状況を楽観視していた。


入院中は食べて寝てを繰り返していた。

減量の心配がないために旺盛な食欲をひたすら満たし続ける。

当時は21歳、まだまだ食べ盛り。

もともとが太りやすい辰吉のことだ、どんどんと体重は重くなっていった。

バンタム級リミット53.5kgに対して、最高で72kgをマーク。

18.5kgオーバー。

これは冗談ではすまされない数字である。(後に辰吉はこの頃のことを随分と恥じることになるのだが…)


4ヶ月のブランクの後、ジムワークを再開。

王座統一戦の予定は1992年秋である。

試合まで約5ヶ月。

左目にメスを入れた。

体重はピークで72kgまで増えた。

しかし天才・辰吉なら問題はない。


辰吉も、辰吉の周辺も、この期間を「ちょうどいい休暇」といった意味合いで捉えていたような感じがある。

これは、あまりにも甘い考えと言わざるを得ない。


大減量をこなしながらのジムワーク。

なまりになまっていた肉体に鞭を打ち、ひたすら自身を追い込んでいった。

しかし、結果としてこの期間の調整が失敗することになる。

ハードワークの疲れを抜ききることができないまま、辰吉は王座統一戦のリングへと上がることになるのだから。


もう1度、先程の話に戻る。

辰吉陣営は王座の返上をしなかった。

これにはある噂があった。

初防衛戦を開催間近の段階で中止とした。

これに伴い、大きな損害を被ることになった。

当然のことだ。

会場は押さえ、チケットは販売を開始。

ポスターなども作ってあり、様々な経費が発生していたのである。

これが中止となれば大赤字となるのは当然のこと。

この損害額をいち早く取り返したい。

辰吉の人気は群を抜いている。

辰吉が世界戦のリングに上がるとなればこの赤字分を一気に回収できるだろう。


この時の辰吉は21、22歳の段階だ。

まだまだ若い。

ただでさえ左目にはメスを入れているのである。

ここは焦らずにノンタイトルの調整試合をいくつか挟み、じっくりと調整するべきではないだろうか。

アマチュアで19戦、プロで8戦しかこなしていない。

キャリアが極端に少ない。

「ちょうどいい休暇」という意味合いで捉えるのであれば、まずはノンタイトルの試合で実戦を積むべきだ。

一級品の才能、若さと勢いだけで駆け上がった世界の頂点。

辰吉は世界王者になったのは偶然ではない、必然であったのだと、

これを確実に自分のモノにするためには少しくらいの遠回りなど何でもないことではないか。

もう1度世界の頂点に挑む前にやるべきことはたくさんある。

焦ることはない。



1992年9月17日、辰吉は364日ぶりのリングに上がった。

「辰吉が1年ぶりにリングに帰ってくる」

会場となった大阪城ホールは観客でごった返した。


1ラウンド、辰吉の身のこなしが軽い。

上半身がよく振れる。

ラバナレスの変則的なパンチが空をきる。

1年のブランクがあろうとも辰吉には何の問題もないのか。

やはり辰吉は天才だ。

安堵の気持ちがこみ上げてきた瞬間、それが一気に崩れ去ることになる。



この日の辰吉は、この1ラウンドだけで終わってしまった。

調整に失敗していた。

完全なるオーバーワーク。

2ラウンド以降、辰吉の動きが別人のように重くなる。

ラバナレスのパンチがおもしろいように当たる。

唯一、辰吉にチャンスが訪れたのは5ラウンド終了後。

ラバナレスがインターバルの間に、うがいで口に含んだ水を吐き出したのだ。

ラバナレスも効いている。

辰吉陣営はラバナレスのダメージを確信した。

しかし、辰吉にはもう力が残っていなかった。


9ラウンド、辰吉陣営からタオルが投入された。

タオルが投げ入れられなくても、レフェリーは試合を止める気であった。


9ラウンド、TKO負け。

辰吉にとって初の敗北である。


辰吉といえども世界のリングは簡単ではない。

左目の動体視力を失い、1年間のブランクを作り、

それでも何の問題もなくリングに上がれるわけではないのだ。


この頃の辰吉には、こういった事実がまだつかめていなかったのだろう。


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